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真夜中の図書室

通訳案内士試験(仏語)合格までの記録と多言語読書の日々

××語で読んでみたい

一番初めに中国語で読み切った本は夏目漱石の「心」でした。本を読むということにあまり関心がなかった私でしたが、大学生になってから本を読み始めるようになり、記憶があいまいですが、確か3回生の夏頃に読了したように思います。

 

それまで夏目漱石なんで縁遠いというか小難しくて読みにくいという印象でしかありませんでした。でも、中国語という外国語のフィルターを通して再構築された物語を読みきった時の感動は「おォ!」という言葉にならない気持ちでそれは今でもはっきり印象に残っています。

 

中国語にはご存知の方もいらっしゃいますが、簡体字繁体字という2種類があり学生時代はもっぱら大陸で使用されている簡体字での読書をメインにしていましたが、社会人になると中国では出版されにくい本も中国語で…という思いもあって繁体字での読書も試みたりしました。ちょっと古くなりますが、当時ベストセラーになっていた「ワイルド・スワン」は中国では発禁でしたので香港や台湾で流通していた繁体字版のものを読んだのが最初でした。内容的には日本で言う上巻の内容は濃密でしたが、後半になると少し物語がゆるいかな?という印象でしたが、それでもベストセラーになるほどの大きな物語性には大きく心を揺さぶられたものです。

 

外国語を学ぶと「××語で読んでみたい」と思いが強くなるものです。それが極ふつうの感覚だと私は考えているのですが、昨今では試験のための外国語だけは強くても本1冊さえもろくろく読み切る力もない「なよなよ」外国語ばかりに目が奪われる傾向が強いように感じます。

 

発音はバッチリ、でも自分の考えが煮詰まってない、知識が不足しているために語彙もある一定の狭い範囲で収まってしまう。そんな「なよなよ」外国語力が幅を利かせているのが現状ではないでしょうか。

 

つまり外国語力が「見世物」化しているのです。

 

外見を気にする若い人であればそうした傾向に与するするのも分からないでもありませんが、年齢を重ねてきた人が格好ばかりではどうもいただけませんね。磨くべきところを間違えてませんか?と思うのです。

 

誰かに自分を誇示する、格好良さ見せつけるために外国語に取り組むのではありません。私見に過ぎませんが、外国語を学ぶ人たちの根本にあるものはもっと世界を知りたいもっと人間を知りたいという欲求でしょう。世の中の学問は所詮は人間を独自の世界観から人間探求に行きつくものです。昨今話題の「シンギュラリティ」問題についても究極的な人間探求でしょう。

 

こうして探求を継続していくと、不思議なことに外国語力をひけらかそうとか、自慢しようとかいった子供じみた気持ちなど露ほども起こらずに、もっと内面に向かっていく動力が働いていく気がします。内面に向かうと言葉も熟成され、もっと磨かれる。そんな風に感じるのです。

 

これは検定試験に受かるとかいったようなつまらない事象とは別次元のお話しです。世間的には試験合格は客観性があり、その人の外国語力を知る上では便利なマーカーであり、それを利用して世に出ることが容易になります。私もそれは承知しているので、試験を受けている訳ですが、普段の生活の中では試験の事など一切頭になく、ただただ物語を少しでも読み、言葉に対する感受性を高めることだけに没頭するのみです。それだけの話。でも、確実に楽しいし、物語を通じて世界を知る幸せを感じる毎日があるのみです。それ以上も以下もないのではないのか?と最近感じ始めているのですが、この先読書量がふえればまた違う感覚も生まれるかもしれません。それもまた楽しみです。

 

試験に落ちるとよく「リベンジ」という言葉を用いて、合格証をもぎ取ろうと必死になる人が多く見受けられます。でも、大事なのは試験出題者側の極端に片面的な評価ではなく、自分の感覚では?と思うんです。内面の成長がいつまでも感じられないのは、それは他人(試験)に評価をいつまでもゆだねているから。自分を育てるのは毎日の自分の営みです。それに気が付かずにいるといつまでも○級合格だけに目が奪われ無駄に時間とお金と労力に無駄にして後々とても悔いることになりかねません。

 

私はただただ××語で物語を読みたいという欲求だけで動いています。だから、試験の結果などさほども気にならず、毎日変わらず外国語に向き合えています。それが私の幸せです。そしていつか××語で本を読みたいという人に読むためのマインドを伝えていければもっと大きな幸せを感じられるかもしれないと心の片隅で考えながら今日も本を読み続けます。