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真夜中の図書室

通訳案内士試験(仏語)合格までの記録と多言語読書の日々

仏語通訳案内士受験記録DAY19

基本的に試験を受け、それに合格するにはよほどの実力があれば別ですが、しかるべき対策なり準備をする必要があります。これが常道です。何かの資格試験に合格しようとして何も勉強せずに合格する人はその試験の形式もあるでしょうが、ほぼ0でしょう。

 

これが語学(おそらく数学も同様だと思う)になるとチト話が違ってくるようで、ただ物量をこなせばいいというものではありませんし、語彙がいくらあっても必ずしも合格するものでもありません。

 

そもそも語学力というものを考えた時、私は最近又吉君(漫才師のカレの事)のことを常々思い浮かべます。彼は正直いってペラペラとしゃべる方ではありませんよね。饒舌ではないけれど、文字というものを使って物語を完成させる能力は目をみはるものがあります。これは誰しも同意するところでしょう。

 

言葉を操る力、と聞くとなぜがすぐに口頭での表現力を思い浮かべてしまいちですが、これはいつの間にか私たちに刷り込まれてしまっているステレオタイプな思考なんだと思います。このことが正しいとか間違っているとかを問題にしているのではなく、つい一定の方向へ思考が向かってしまうことを少し改めるべきではないのか?ということを言いたいのです。

 

語学力も同様でなぜかいわゆる口頭でペラペラしゃべる人=語学の才能のある人と一元的に決めつけてしまっている感が否めません。でも、話すことが出来ても書けない人もいるだろうし、話していることがとても幼稚だったりすることもあるのに、ただペラペラと話されているのを聞いて「すごい」と感心してしまう私たちにも問題があります。

 

 

冒頭の試験の話に戻ると、試験というのはとても狭い入口に自分の身の丈を合わせて何とかして入ろうとするようなイメージです。自分の都合は一顧だにされません。その試験に受かることで世界が開ける人も当然いるでしょうし、ただただ試験に受かりたいと思って挑むことだけが目的になってる人もいることでしょう。確かに難しい試験に受かれば自信も勇気も名声やらも手にすることが出来るかもしれません。語学試験も1級試験に受かれば相当持ち上げれたりしますし、実際にすごい人もいます。

 

ただ思うのは試験にだけ価値を求めるのはどこか歪んでいて、むしろ試験などなくとも打ち込めるものがあるということの方がよほど健全な人生を歩めるような気がしているところです。

 

私も試験は受けます。でも、試験に自分を合わせることはしません。自分が一生やっても飽きないものを追いかけているとその内試験の内容も自分の世界に包括されすーっと合格できるようなものだと思っています。

 

考え方は人それぞれ。でも、くれぐれも試験に憑りつかれた人生だけは送らないように気を付けたいものです。